ワークショップのパッケージ化で失われるもの

教育系のワークショップをお仕事として依頼される時、よく求められるのは教育を「商品」としてパッケージ化するということ。 これが、ちょっと厄介なんです。 お決まりのパッケージ化された定型ワークショップというのはたくさんあります。けれどもワークショップは基本的に生物で、参加する人も違えば、環境も違えば、ワークショップに求める思惑も違うわけです。何が起こるかわからない、何が生まれてくるかわからないからこそワークショップなはずなので、主催側はハラハラするでしょうが、その場で起こっていることに神経を注いで、進めていく。ワークショップという場をつくるのは、最終的には参加している人たちだからです。

私が企画に関わる、un labo.やビットデザインスタジオのワークショップでは、定型ワークショップをそのままやることはまずなく、その時々にあわせてオーダーメイド的に企画をつくっていき、当日も参加者の様子を見ながらプログラムを改変していくことになります。
これって、ワークショップ観や教育観の異なるクライアントの場合、とても不安になるようで。時にはとても怒られます。笑
そもそも教育をパッケージ化することに無理があって、どうしても、やる側都合でプログラムを固めてしまうことになる。この時にとても残念なのは、どんな状況でも、どんな人でもできるようにつくるからですが、学び手を舐めた過保護なものになってしまうこと。90%レールを敷いた上を歩かせて、オプションで想定内の範囲なら自由を許します。みたいなやつです。 何が出てくるか、あるいは出てこないかもしれないようなものを 「デザインしました」「教育しました」 というのはとてもリスキーで勇気がいることです。
ワークショップも予定調和的にちゃんちゃんと進行できるようにつくっておけば、ライブショーのように安心して見ていられるからですね。
でもね、きっとそういう過保護なキットで企画ごっこしてるうちは、できたような気になっているだけで、無から何かを生み出していく企画力や創造性って育っていないと思うのです。 教育の中でそれをやらずに、いきなり失敗が許されない社会でそういうレシピのない局面に立たされたら、どうなんでしょう。
実際の社会には明確な目的なんてないし、どんな状況でも通用する定型の方法なんてないことの方が圧倒的に多い。混沌とした状況から、そこに問いをたてて、自分たちで積み上げながら構築していかなければならないわけです。 渡る世間は鬼ばかり。常に結果を求められ、評価を下される怖〜い社会です。
そこで、改めてワークショップや、教育という現場の役目を考えてみると、今もっとも大切なのは、安心して失敗できる環境をつくってあげることなんじゃないかと。混沌としたものから、自分たちのやってみたいという力で立ち上がってくるものを、焦らず待ってあげること。
ここ数年、開発系のワークショップをやらせてもらう時には、まずフラットな関係の中で外から持ってきたデータやエビデンスではなくチーム間で自分自身の経験知や考えやを吐き出せる環境をつくることを丁寧にやっています。一見遠回りに思えるのですが、結果的にはこの方がアイデアの飛躍も大きく、生産性の高いチームをつくることにつながっていくのを目の当たりにしてきました。
最初にゴールなんてあるわけもなく、ワークショップが終わった後に、どうその場の経験を後づけしていくかの方がずっと重要で。人生もそんなもんですよね。笑
ワークショップといっても本当にさまざまで、いろんな持ち味があっていいんです。ただし、私たちは、チーム間でアイデア積み上がっていく経験を最重要と考えているので、これを阻害するのであれば、競争や評価といった人参をぶら下げることもあまりやりたくないと思っています。ファシリテーションも上から圧倒してまとめ上げるというスタイルではなく、議論の行方を客観視しつつも、あくまで参加者と同じ目線で、必死にアイデアを出して積み上げていくことのお手本を示すようにしています。こういうファシリテーションのスタイルもちょっとびっくりされます。(それはファシリテーションじゃないと言われるのであれば、名前を変えます。笑)
話がのってきたら、その時間を延長するし、予定していたプログラムをやめたりもします。だってワークショップの目的はワークショップの進行が恙無く進むことではないからです。こういうのを見ると、とても無計画に見えるのか、とっても不安に思う人もいらっしゃるようですが、準備していないわけではなく、プログラムを自分たちで実際にシミュレーションしてみて、できそうかどうか、どこでつまづきそうか、など本当に余念なく練っているのですよ。
もう一度言いますが、安心して失敗できる場づくりによって、チームの生産性、個人の自己肯定感はあがります。だからどうか、教育現場はもう少しやさしい場になってほしいと願います。
釣れるという確証がないと釣りにいけない人ではなく、いいお天気だから釣りにでも出かけようという人を育てたいし、そういう社会になればいいのになと思います。

言葉にするのはちょっと待って!

先週末のUX Workshop labo.による久々に大がかりな対面&オンラインのアクティングワークショップ。集まる人数を減らすため、3拠点で開催し、ところどころオンラインで結ぶという初の試み。 ドキドキしながら、私とカナさんチームは東京会場へ。
会場下見した際に、こんなポスターが。ナイスなコピー 笑

で、なんだかんだで、アクティングアウトを終え、何か確かな感覚をみんなで共有していたところに、アクティングアウトに参加していない方からの、こんな質問。


「で、ユーザーのインサイトは何だったのですが?」

「それらの言語化はしていないのですか?」

と、矢継ぎ早にマウントをとってこられ。これまでの和気あいあいした空気感が一転、、。

こういう時、頭が真っ白になる。そんな私の隣で、

「今回は調査結果ではなく自分の実感を最初に話すことからスタートしたので、
とにかく実感を感じらるかどうかが重要だったんです」と参加者の一人が答えてくれたました。すばらしい!!

「インサイトの言語化」…


とっさに頭真っ白になった自分を反省しつつ、この言葉が後々私の中でモヤモヤとしてきた。

「言語化」
明文化することはとても大切なこと。言葉にすることで思考がはっきりしてくるし、相手にも伝わるようになる。ただ、これを急いでしまうことの弊害もあるということ。

そもそもなぜ私が、アクティングアウト押しなのかというのも、「言語化」ができない部分(感覚的な価値)を身体で演じることで、まわりの人たちと共有の感覚を見つけたいからだ。

自分の感覚を抜きにした市場調査から得られる「インサイト」なるものへの違和感。これがインサイトです。と言語化される以前のふんわりとした感覚。

エビデンスのない、ふんわりした感覚を頼りに開発するなんて持っての他!とお叱りの言葉が浮かびますが、私たちが目指しているのは、どこかからとってきたデータではなく、自分が本当に「いいかも!」と思えた実感を起点にした開発です。身体的にキャッチしている「言語化」されない感覚を開発チームで共有できれば、自ずと次の段階で言語化のプロセスへと向かうことができます。

だから、きちんとした言葉にしてしまうのを急がないで!と言いたい。

考えすぎず、考えなさすぎず。

頭を使うのに慣れてきた現代人は、ついつい頭だけで考えて答えらしいものを出してしまいます。なので、いかに考えすぎる前に試してみる、「ほな1回やってみましょっか」ってタイミングがファシリのポイントになります。身体で感じた「これはないなー」とか「これは思ったよりいけそう!」とか、素直に感想を言いながら。きちんとした言葉にならない感覚をポロポロと口にだしていくのがポイントです。「バーっといって、ふわっとして、キラリーン★」みたいな。😁 これは、あ、関西メソッドですね。😁 


一見すると、子どものごっこ遊びのようなアクティングアウト。実は開発における超ラピットプロトタイピング!、つまりこれぞ、アジャイル開発なんですね。

オンラインワークショップでは、個々がアイデア出しをしたり資料を集めたり、宿題を通して随分と効率よく展開することができ、立場に関係なく意見をフラットに出せるのも利点です。しかし、プロジェクトを深化させ、収束させていくには、リアルな場にたちあがる「これいい!」「こっちの方向だね!」といった「共有感覚」が必要です。

つまり、何度もいいますが、

デスク上で安易に言語化してしまうのは、ちょっと待って、
ほんとにそれってどうなの?って立ち上がって演じてみてください。

インプロ(即興演劇)とUX研究会


前々から気になっていた「インプロ」のこと、舘野先生にちらっとインプロ研究会したいんですよって相談したところ、ババっと声をかけていただき、これまたインプロ的に集まれる人がその日、その場に集まって何のプログラムもなく開催していただきました。✨

日時;2018年7月25日(16:00〜18:00)場所:立教大学集まった人:三宅由莉 舘野 泰一 石戸谷 直紀 園部 友里恵 野村 真之介 堀 光希 
なぜ私がここのところ俄かに「インプロ」に興味を持ち始めたのかといいますと、現在、私がUXワークショップ企画で専属している株式会社ビットデザインスタジオでは、UX(ユーザー経験)デザインを考える時に、身体をつくって演じながら思考する「アクティングアウト」という手法をワークショップで用いるからなんです。これは、かつて90年代にプレイフルラーニングでお馴染みの上田信行先生とジョン前田氏によって行われたコンピュータの中身を演じてみるという「Human powerd computer」のワークショップに端を発しています。この時はまだワークショップというものが世間にも浸透していない時、ここから経験のデザインとは何かがダイナミックに動きはじめた時代の感覚を覚えています。


で、UXデザインの中でアクティングアウトとやらは、具体的にどういったことをするかと言いますと、
ある製品が使われる状況やサービスのシーンをグループになって「こんなシーンでこんな風に使われるといいね」「こんなシーンだとこんな機能があるとうれしいな」など、即興でいろいろなペルソナになったり、時には製品そのものになりきって、演じながら企画やアイデアを 共 創していきます。

※アクティングアウトとは:
開発における「アクティングアウト」とは、製品の使用シーンやサービスシーンを「身体」を使って演じてみる中から、脳ではまだ意識化されていない感覚(無意識)に注目し、そこでの気づきを開発に活かしていく手法。
by MiyakeYuri ビットデザインスタジオパンフレットより


実際にやってみると、頭やデスクトップ上で考えていた時には思いもよらない、アイデアが身体感覚や空間感覚などによって創発的に生まれてくる経験をします。結構驚きです。しかし、問題は、やってみた人には目から鱗だったりするのですが、やってみないうちは、大抵の場合かなりの拒否反応がでます。台本もないシーンを企画をその場その場の思いつきで「いきなり演じてみる」ということに大変懐疑的であります。それもそうだと思います。怖いですよね。私自身、インプロのことは横目に知りつつも、なんか怖そうだし、まさに疑心暗鬼でなるべく避けるように過ごしてきました。
怖い気持ちもよくわかる私ですが、アクティングアウトの手法のパワフルさを経験してしまったら、もう虜でして。で、これをもっとみんなに理解してもらって、とにかくどうにかこうしか経験をしてもらいたい。そのためには、どうすれば最初の一歩のハードルを下げられるんだろう、、、、と。
そんな折、ふと手にとったのがこの本。やっとこのおもしろさに気づいた。おそ。

というわけで、この即興で演じることによるメリットや参加者のハードルを下げるということについて、がっつりとインプロの専門家の方々にお聞きして、プチ体験会をさせてもらうことに。園部 友里恵さん 野村 真之介さん 堀 光希さんは東京学芸大学の高尾隆先生の門下生で、インプロの創始者であるキースジョンストン氏の潮流としてインプロワークショップを多方面で開催している方々。そして上記の書籍の編集者でインプロのワークショップを多数経験されている石戸谷さんにもお越しいただきました。贅沢〜
予想を遥かに越えて濃密でワクワクする経験になったので、以下、忘れないように内省のために、研究会のご報告。というか、私のメモです。

★アクティングアウトと共通するインプロ(即興演劇)の考え方
お試しでインプロを体験する中で、アクティングアウトと共通する以下のような話が出てきました。
前頭葉によっていろいろ「考える」ことが得意になった人間は、ちょっと「頭」を過信しすぎているように思います。イメージ力は人間ならではの創造性ですが、もともとは身体と密接につながって発動しているもの。身体感覚から切り離された「イメージ」や「意識」は、逆に創造の障壁となっている。そんな話がバシバシと出てきて興奮しました。

 ・創造性はもともとある、壁(よく見られたいという意識)をとりのぞけば出てくる 

 ・「考えてしまう」をとっぱらう(紙とペンはなし)

 ・未来への恐怖を取り除く  ちゃんとしなくていい 

 ・失敗をおそれない、失敗をオープンに楽しむ経験

 ・Give your partner a good time(相手にいい時間を与える)

 以下は、書籍の中からのメモ

 ・スポンタナティ(spontanety)=ぱっと自動的に何かが思いつく状態

 ・意識(人)で無意識(馬)の関係
 ・変革の生態系を生み出す

 ・主体としての身体とモノとしての身体のズレ(リクレクションが起こりやすい)

 ・批判的内省(そもそもをゆさぶる)

 ・現象学的社会学(シュッツ)=見る人、視点が変れば現実もかわる「多元的現実論」

 ・社会構成主義(意味をみんなでつくっていく)バーガーとルックマン  
  大きな物語か=小さな物語がたくさんある世界へ

 ・身体という意志によってコントロールできないメディアを使うことで  
  →日常の権力関係を相対化する(=擬似的民主的な舞台)
★インプロやアクティングアウトがなぜ必要なのか(社会的な意義)
 ・ゆるやかな目的をその場その場で変更し、よくしていきながら進めるということが
  理解されにくい (ゼロイチの発想になりがち)

 ・完成されていない、不確かなカケラを出すことを非常に恐れる人が多い。

 ・カケラを出さなければ、共創は生まれない。

 ・人は意識や頭で考えることを過信しすぎ、身体感覚が失われていることが問題

★恐怖心と懐疑心を取り除くためにできそうなインプロイントロワーク
アクティングアウトの話をして、その中でインプロのワークを取り入れるとすればどんなのがありますか?とたづねていろいろその場で体験させてもらいました。以下はその一部。

⚫️リヤーハンドホップラー

 失敗を楽しむゲーム 厚盛ゲーム、さしすせそ禁止ゲームなどで 失敗した時に決め台詞「失敗しちゃった!」をオープン言う。 このセリフが違和感あって恥ずかしいという意見も。  

⚫️魔法の箱1

 魔法の箱から相手へのプレゼントを取り出して「〜をあげる」と言って渡す もらった相手は、そのプレゼントが受け取ってうれしいかどうか、素直な反応をかえす (気をつかわない、リアクションを素直に出すレッスン) 相手のリアクションから好きな好みの情報をあつめる。 何度か繰り返す ※注意 プレゼントというと、ありきたりなものを選ぶ人がいるので、     3回に1回は「これはない」というものをあえて言ってもらう

⚫️魔法の箱2

 魔法の箱から取り出したものの形状は想像できるが、何かは言わない。 受け取った相手が、それは何かを答える 色やキラキラしてるなどのヒントはあり  ※応用 箱から取り出す人が嫌そうな態度でわざとやると、     受け取って答える人もやりにくい。ということを体験    
 
⚫️エニシングバット(見立て)

 モノ(ペットボトルとか)を何かにみたてて演じる 順番にまわす

⚫️スチュエーションコメディ

 例えば、冷蔵庫の前というシチュエーションだけ設定   ペルソナカードをランダムにひく  ひいたペルソナでシーンを即興で演じてもらう ※ペルソナは事前にいくつか用意、参加者から追加で出してもらっても)

と、アクティングアウト(開発のワークショップ)用にアレンジ頭をひねってもらって即、その場でやってみる、考えるの繰り返し。さすがインプロの達人揃いとあって「ちょっとやってみよ〜」がとにかく軽い。笑
短時間にものすごく実りがありました。最後に、私が一番印象に残ったのは、インプロは自分のためにという気持ちではやらないという話。
私が、アクティングアウトは、自分のためではなく、開発が目的だからあまり恥ずかしくないけど、インプロは自分のためにやるから恥ずかしいんですよって話したら、インプロも実は自分のためではなく、一番大きな思想にGive your partner a good time「相手によい時間を与える」ということなんだということを聞いて、おおー、となりました。そう、自分に意識を向けないことで、自分が勝手につくった壁を取り除くことができる
ここが一番のポイントかなと思います。学びは後からついてくる。大丈夫!というのが私の信条なので。

となんか勇気と確信をいただいて、とにかくパワー復活な1日でした。
GOOD TIME!

ありそうでなかった園部さんとのツーショット

見立て遊び

文化は共想の中から生まれる

今までにないような新しい発想でイノベーションを起こすスーパークリエイティブな人材。多くの人はスティーブジョブズのようなカリスマ性のある人を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。
けれども私は、そもそも一人の頭の中だけで行うクリエイションには限界があると思っています。そして一人で考えたものは例外をのぞいて、多くは市場で受け入れられないのではないかと考えています。
なぜなら、新しいものがスタンダートになっていく時には必ず、使い手と共に一つの文化の共創が行われるからです。今までにないような因子が社会に放り込まれた時に、多くのアイデアは理解されず、消滅していくことの方が圧倒的に多いはずです。では、今まで見たことのないようなアイデアが、市場で理解され共感され、育っていくにはどうすればよいのでしょうか。

見立て遊びに興じる

日本には、石を動物や自然の様に置き換えた石庭や、詫び茶の設えに、竹筒を花器として用いる「見立て」を楽しむ文化があります。「見立て」は子どもがごっこ遊びに興じるように、ある世界観の約束事を共有して、主客が同じテンションでその場をつくるために演じるという一種の「遊び」です。

先日、9月5日(土)(株)ウィルソンラーニング ワールドワイドの本社会議室をおかりして、un labo.が主催するun schoolの「見立て遊びのデザイン思考」のワークを行いました。主客が一つの約束事を介して一つの世界観を形成していく「見立て遊び」の手法を用いたアイデア発想を行いました。

ワークでは、一見、コースターとは何の関連性も持たないような雑多なものがテーブルに並べられました。紐やおもちゃ、うちわや辞書など。そこに置かれたモノの上に頭で思考するよりも先に手や身体を動かしはじめます。意図せず、そこに顕れる風景や現象に最大限に感覚を研ぎすませます。

何かに見立てるとは、何かに見えてくるということ。何かが、そこに見えてくるということ。
何かに「見立る」というのは、多くの思考の余地を残したプロトタイプをつくることと同じ。そこから、いろんな人たちの意見が飛び交い、一つの方向性が見えてくるのです。

見立て遊びのデザイン思考のワークでは、「思考する前にまず動く」「目の前の事象に感覚を研ぎすませる」「遊びの中から着想していく」ことを通して、何かを誰かと一緒に生み出していく、育てていく感覚をつかんでもらいました。

何のためのグループワーク?

グループワークやチームプロジェクトなど教育の世界でも会社の中でも、その重要性は随分前から言われています。しかし、本当の意味で一緒に思考していくすごさを腹落ちされていないように思うのです。
今回の東京でのワークでは、少し「グループワーク」って何?というようなことも意識しつつ。グループワークと一口に言っても、いろいろなパターンがあるよね、という話から、ワークの後には、参加者の方々の日頃の経験などを話してもらいました。
以下の図は、グループワークを1.0「指示型」、2.0「情報交換型」、3.0「共想共創型」の3つに分類したものです。
グループワーク1.0「指示型」は、グループといえども、その中のリーダー的存在の人がグループ内の人に指示を出してプロジェクトを進めるやり方です。この場合、完成のイメージは指示を出すリーダーの中にあり、そのプランに沿ってグループメンバーに仕事を発注するやり方です。
グループワーク2.0「情報交換型」は教育の現場でよくみられるグループワークです。お互いが知っている情報を教え合って、さらに理解を深めようというもの。グループワークを行う目的が、能動的になることで、既存の知識をより獲得しやすくするためとしています。
グループワーク3.0「共想共創型」は、お互いが考えや提案を投げかけ合い、一つの価値やルールや文化を一緒に創造していく場合におこなわれます。
リアルな場で顔をつきあわせて何かを一緒に行うことが、改めて希少となってきた現代において、グループワークの意味を再度考えてみるのも大切かもしれませんね。

以前、堺のun labo.で行った「共想」のデザイン ~見立ての遊び心がつなぐモノ~のレポートはこちらです。
http://capdesign.exblog.jp/22958080/

思考のテンポ

一緒に仕事したい人、
かつ、一緒にやるとぽこっと何か偶発的にいいアイデアが生まれる人がいる。
それって、もしかしたら結婚パートナーを見つけるより幸せなことかもしれない。😅

しかし、それってもちろん価値観や相性ってこともあるんだけど、どうも考えるテンポ(思考のリズム)が関係しているのではないかと最近思う。
頭がいいとか、趣味があうとか、そういう問題ではなくてただ単に考えるスピードが同じということ。いやもしかしたら、スピードはちがうかもだけど、テンポ(リズム)が同じなのかもしれない。

打ち合せをしている時にあっという間に考えをまとめてしまって結論を出してしまう人がいますよね。
これはもしかすると、思考の速度があっていないのかもしれません。
話が目の前を流れていって、「あーーーそこ、気になるんだけど〜」と考えている間に次の話題へ。そのうち思考が停止するのです。笑 

アイデア会議をする時に、ハッカソンのようなマラソンのようなスピードでアイデアを出していく場、またゆっくりとリラックスしながら横道にそれながら、散歩のようにアイデアを出していく場。どちらがよいというわけではなく、どちらもその場に一定のテンポが流れていて、参加する人たちが同じその場のテンポで思考します。

先日、ベベチオの早瀬さんが、唄をつくる時にその曲のテンポを歩く速度なのか走る速度なのかを、実際にその場をウロウロ歩いて曲をつくるのだと言っていたのを思い出しました。テンポがそろっていれば、意外におもしろいアレンジになったり、奇麗なハーモニーになったりする。
何か一緒に会議をする時にも、考えるテンポがあっていれば、アイデアとアイデアがうまく科学反応を起こす可能性が高まる気がします。

つまり、そもそも考えるテンポがあう人というのは理想的ですが、案外その場が醸し出す雰囲気にテンポがあって、そのテンポに人は自然とあわせていくように思ったりもします。会議をデザインするときに、この場の持つテンポというのを意識すると、うまくいくのかもしれません。

デザインは躾

こんなゆるゆるな子育てをしている私が言うのもなんですが、デザインマインドは幼少期からの躾だ!と思ってはじめたのがトロワメゾンだったりする。

子どもの夏休みの宿題をみているといつも私の頭に浮かぶ言葉は「デザインは躾」。デザイン教育は教育するものではなく、躾けるものだと常々思う。

そんな偉そうなことを言う私自身も、学生の頃は、レポートなんぞとにかく出せばいいぐらいにしか考えてこなかった。けれど、それがどれだけの時間を無駄にし、どれだけ大切な機会を失ってきたかと今は思う。

レポートは、出してこの場をやり過ごすことが目的になっていた。信じられないことだけど、それを読む相手がいるのだということは全くと言っていいほど頭になかった。子どもたちの宿題を見ていても、それがみてとれる。小学校の低学年だと先生が「頑張ったね」とか書いてくれるにも関わらずだ。大学にもなると、そんな先生の返事の言葉もないのだから、なかなか相手のことは考えにくいかもしれないが。

私はいつも、そのいい加減に仕上げた宿題を見て、説教をはじめる。

宿題のできはどうであれ、それを先生が見るのだということ、そして、そのアウトプットされたもので、あなた自身を評価するのだということをくどくどと言う。

くどくど言わなくても、そう子どもが感じるようなデザインが必要かも。

とにかく、相手に分かりやすく、魅力的に伝えることがデザイン。これは人として最低限の礼儀。

デザインは、単にきれいなものをつくるという装飾的なイメージで考えられがちだけれど、それは如何に魅力的にみせるかという部分だけであって、いかにきちんと伝えるかの部分が抜け落ちている。

デザインは、デザイナーだけのものではなく、どんな職業の人にも必要であり強力な素養。だからこそ、大人になってもデザインする努力(人に分かりやすく伝えよう)を最初からしない人は、不躾、行儀がわるい!と言いたい。

だから、行儀の悪いデザインをしていたら、その度、子どもには説教するのだ。

プレイスマット

食事の時にテーブルに敷かれる「ランチョンマット」。実はそれ、和製英語だって知ってましたか?
ランチョンというのは、少し格式高い正餐に近い昼食をさす言葉だそうです。
英語では「プレイスマット」と呼ばれ、一人一人の食事のスペースをつくる為に敷かれるものだということ。

「プレイスマット」と聞くと、これまで、テーブルを汚さないために敷かれたものぐらいにしか思っていなかったマットが、なんだか「どうぞこちらへ」とボーイさんが席をひいて着席を誘ってくれてるように感じるから不思議です。

「ここがあなたの居場所です。」って言ってもらえるのって、なんだかほっとするのはなぜなんでしょう。

私、こう見えて、もともと人見知りな性格で、パーティや大勢の人が集まるイベントに出かけた時、自分の居場所がなくていたたまれない気持ちになることがあります。ほんとです。笑
だからこそ、自分がそういう場を企画する時にも、ゲストの居場所をつくることをとても気にしている自分がいます。

「居場所づくり」は、どんなに盛大な演出や、御馳走にもまさります。もてなしの基本のキですね。

「ここがあなたの居場所です。」

これが、言葉ではなく示してくれるのがプレイスマット。
しかも自分の場所がパーティションのようにクローズされているのではなく、オープンでありながら、安全地帯からコミュニケーションをとることができる。

なんだかさりげなくて、うっとりします。

ツールの力は偉大だ!

LearningDesignsでのワークショップ
プレイスマットをつくろう!より

レシピ通りにつくれない派

私がいない時に料理をつくってくれる娘が、何気に名言。
「うちの冷蔵庫には、レシピを見て名前のある料理をつくろうと思うと、材料が足りない。
でも、レシピを見なければ、材料は豊富にあるんだよね」
って、なんか深いわー

何者かになりたくて、人の真似をしてみると、自分に足りないところだらけだけ。
でも、ただ思いのままに前に進めば、自分にはいろんなものがあることに気づく。

私は料理も人生も、レシピ通りにつくれない、行き当たりばったり派。

想いのカケラ

意味をまだ纏わない、想いのカケラをどう出させるか。
ということを、思えばずっと昔から考えている。

ツールをデザインすることも、
アクティングアウト(身体思考)のワークショップをするのも、
対話が生まれる場としてのサロンを企画するのも。

意味に囚われて見えにくくなった、
ホワホワした欠片をいつも拾いたいと思っている。

自分さえ気づいていない、言葉にもなっていない「何か」。
私とあなたの間に出てきた「何か」こそおもしろい。